知識のコモディティ化と行動のプレミアム
November 28, 2025 | 7 min read | 353 views
「知らないことはAIに聞く」ことが当たり前になりました。複数の文献にあたって情報を整理するといった、かつて数時間かかった作業が、エージェント化されたAIツールの登場によって数分で済むようになりました。実際、AIが人間の介入なしに自走できる時間の長さ(task-completion time horizon)はおおよそ7ヶ月ごとに2倍に伸びつつあり1、またLLMの性能を固定した場合の利用コストは毎年およそ1/10に低下しています2。今後もこのトレンドが続くと仮定すると、知識の獲得と整理の限界費用は、AIによってほぼゼロに近づいていくでしょう。
ここで避けて通れない問いは「知識がコモディティ化した世界において、人間の経済的価値はどこで生まれるのか」というものです。本記事では、約1年前に書いた『AI時代をどう生き抜くか』のフォローアップも兼ねて、個人がAI時代に採るべき具体的な行動指針について考えてみたいと思います。日頃からAIに触れている人にとっては当たり前のことと感じるかもしれませんが、教育システムをはじめ社会の大部分は時代の変化に追いつけていないと感じるので、そのギャップを前提に、いまの自分なりの考えを整理してみます。
コモディティ知識とフロンティア知識
知識の獲得と整理がAIによって自動化されたとしたら、人間には何が残るでしょうか。現在のLLMの訓練方法を考えると、現状のAIには以下のような限界があることがわかります3。
- 指示のない状態で自らタスクを発見すること:ユーザーのプロンプトに対して応答するようにしか訓練されていないため
- 環境との相互作用から何かを発見したり学習したりすること:世界モデルや身体性(embodiment)が不完全なため
- 物理世界に介入すること:物理的な実体を持たないため
つまり、知識処理の効率はAIによって飛躍的に高まった一方で、現実への介入と結果からの学習は依然として人間の役割です。行動と学習のループの主導権はまだ人間にあり、AIはあくまでその補助として機能します。ここで区別しておきたいのが「コモディティ知識」と「フロンティア知識」です。
コモディティ知識(汎用知識)とは、インターネットやオフラインの講座などから得られる再利用可能な知識です。例えばPythonの書き方や財務の基礎のように、誰が学んでも同じ内容になる知識です。誰もがアクセスできるという点はインターネット時代から変わっていませんが、LLMが調査・翻訳・解説まで肩代わりしてくれるようになったことで、そのアクセスのしやすさは劇的に改善しました。
フロンティア知識(先端知識)は、実際に行動してみないと得られない知識です。コードベースの明文化されていないメンタルモデルや4、自ら事業を起こして得たビジネスの洞察、現場に足を運ばなければわからない事実など、経験と試行錯誤を通じてしか蓄積できない知識が含まれます。学術研究でいえば、論文として初めて世界に報告される発見に相当します。
同じ「プログラミングを勉強する」でも、書籍や動画で文法や設計を学ぶのはコモディティ知識であり、自分でサービスを1本リリースし、ユーザーの反応や障害対応から得られた学びはフロンティア知識だと言えます。このように、コモディティ知識かフロンティア知識かを意識して学ぶことが、AI時代の学習戦略の前提になります。
知識と、それを扱う高度な知能が潤沢に供給されるようになると、コモディティ知識と人間レベルの知能の組み合わせでは差別化が難しくなります。42.195kmを30分で移動できる乗り物があるときに、人間がそれを2時間で走ろうと3時間で走ろうと、経済的価値に差がないのと同じです。この時代においては、単に博覧強記であったり頭脳明晰であることよりも、それらを使って何の価値を生めるのかという問いがより本質的です。より身近な例を挙げるなら、MBAよりも起業経験が、コンピュータサイエンスの学位よりも個人開発の経験が採用市場において評価されるといったことです。コモディティ知識をいくら身につけたところで、それは「AIに聞けばわかること」でしかないからです。したがって、キャリア戦略として重要なのは、コモディティ知識の吸収にかける時間はAIの活用により最小化しつつ、自分の勝負領域を先鋭化させ、その領域でフロンティア知識を蓄積していくことです。
勉強→投資回収のモデルからJust in Time 学習へ
では、フロンティア知識をどのように増やしていけばよいでしょうか。そのカギになるのが、ここで述べる「Just in Time 学習」です。
従来の「若い頃に勉強に時間を投資し、後年でリターンを得る」というキャリアモデルは、コモディティ知識の陳腐化によって成り立ちにくくなりつつあります。「生涯学習」や「リスキリング」といった言葉はChatGPT以前からも流行りつつありましたが、今後はこれをさらに進めて、学習と行動を常に一体化した「Just in Time 学習」とでも呼ぶべき学び方が重要になるでしょう。これは、コモディティ知識の吸収にかける時間を最小化するために、やりたいことや解決したい課題が生じた瞬間にAIで必要な情報を調べ、すぐに試して結果から学ぶというサイクルです。事前にすべてを網羅的に学ぼうとするのではなく、「必要になったときに必要なだけ学ぶ」ことを前提にキャリアを設計するイメージです。
例えば、「漫画の自動翻訳サービスを作りたい」という行動に駆動される形でソフトウェア開発の知識を必要な分だけ学び、サービスを事業化したら財務や法務の知識を必要な分だけ学び、組織を拡大したくなったら採用やマネジメントについて必要な分だけ学ぶ……といった調子です。
私自身も、仕事と余暇の両方で、この考え方を意識するようにしています。仕事では、自分の現在の能力でできるかどうか判断がつかない案件でも、背伸びして引き受けるようにしています。その内容が技術だろうとマネジメントだろうと、AIの助けとやる気さえあれば、まずは一定の成果が出せるはずです。仕事で必要になったスキルを適宜AIや他のフィードバックから学ぶことで、Just in Time にスキルを獲得していくイメージです。
余暇の時間は個人開発に勤しんでいます。まだ世の中に出せたプロダクトはなく、偉そうなことを言える立場ではないのですが、それでもユーザーやプロダクト、事業計画についてあれこれ考えるだけで、かなりの思考訓練になります。また、他の個人開発者の話を聞くと、自分では思いもつかなかったアイデアが実際にビジネスになっていたりして、非常に刺激を受けます。こうした「背伸び」と目的駆動の学習の積み重ねが、その人ならではのフロンティア知識になっていくのだと思います。
それから、知識を効率よく身につけるのにもAIを活用できます。
- 音声入力による思考の記録:会議や読書、散歩中のアイデアを音声入力でメモにすることで、低コストで記録を残すことができます。
- メモアプリとAIエージェントによる自動整理:上記で作成した膨大なメモを構造化し、再利用しやすい形にします。例えば、最近はObsidian と Cursor の組み合わせが流行っています。
- AIとの対話を通した学習:分からない概念はAIに噛み砕いて説明してもらうことで、挫折を防止できます。
一昔前ならメモをこまめにとって時折復習するだけで他者に抜きん出ることができたのかもしれませんが、AI時代においてこれらは競争の土俵に上がるための前提条件です。記録や整理といった作業はAIに任せ、人間は「実際に行動してその結果から学ぶ」というフロンティア知識獲得のための行動に時間を投資すべきです。
おわりに
AIは知識を外部化し、学習と行動のサイクルを高速化します。しかし、どの領域でフロンティア知識を蓄積するか、どの一歩を踏み出すのかを決めるのは人間です。本稿で述べたコモディティ知識とフロンティア知識、Just in Time 学習という枠組みは、その問いに向き合うための一つの見取り図に過ぎません。あなたが情熱を持ち、時間と労力をかけてでも掘り下げたい領域はどこでしょうか。その領域で他人がまだやっていないことは何でしょうか。コモディティ知識を味方にしつつ、行動量を増やすことで知を切り拓くことこそが、AI時代のキャリアにおける最大のプレミアムだと言えるでしょう。
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Thomas Kwa, Ben West, Joel Becker, Amy Deng, Katharyn Garcia, Max Hasin, Sami Jawhar, Megan Kinniment, Nate Rush, Sydney Von Arx, Ryan Bloom, Thomas Broadley, Haoxing Du, Brian Goodrich, Nikola Jurkovic, Luke Harold Miles, Seraphina Nix, Tao Lin, Neev Parikh, David Rein, Lucas Jun Koba Sato, Hjalmar Wijk, Daniel M. Ziegler, Elizabeth Barnes, Lawrence Chan. "Measuring AI Ability to Complete Long Tasks." 2025.
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Guido Appenzeller. "Welcome to LLMflation - LLM inference cost is going down fast ⬇️ | Andreessen Horowitz."
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AIエージェントの内発的な行動に関しては、Minecraft環境を自律的に探索することでスキルを蓄積することに成功したLLMエージェントのVoyager(Wang et al., 2023)などの研究が存在します。この方向性には個人的に期待している一方で、現状ではコントロールされた環境下での実験に留まっています。
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コンピュータの世界モデルに関しては、RLVR(Lambert et al., 2024)が大きな可能性を秘めています。
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Written by Shion Honda. If you like this, please share!








